家族の声

かむら堂:利用者の家族の手記

利用者様の家族の手記

義父と私たちの2年半

9月のある日の午後、電話が嗚った。
警察からだった。
「○○さん(義父)が救急車で運ばれました」
事情はこうだ。義父は一人で運転免許センタ一に行こうとして途中、何かに車をぶつけた。そのまま免許センタ一近くまで行ったが意識が無くなり、泡をふいているところを通りかかった人が見つけ、救急車を呼んでくれたらしい。幸い大事には至らず2~3日で退院できた。本人は事故のことを何も覚えていなかった。病院では熱中症だろうと言われた。
かむら堂:利用者の家族の手記
義父は一人暮らし。
義母は亡くなり、長男夫婦である私たちとは別々に暮らしている。あの日、義父は自宅のエアコンはつけっぱなし、部屋は物が散乱したまま運転免許センタ一に出かけていたのだ。その様子に不安を覚えた私たちは、退院前に医師にお願いして脳のCTをとってもらった。その結果は「大丈夫ですよ。同年代の方より若い脳です」私たちはほっと胸をなでおろした。
もとどおりの生活が続いたある日、義妹から連絡が来た。
「お父さん、歯科医院に行く日を間違えるばかりしている」
義妹の嫁ぎ先は義父の家から車で約20分。私たちより近いので頻繁に様子を見に行ってくれるのだ。義妹は心配し大きな病院へ連れていくと言う。もちろん賛成だ。私たちの心に不安がよぎった。
結果は「脳血管性の認知症」
この日から私たちと義妹夫婦4人の奮闘が始まった。

歯科医院へ行く日は、私たちの誰かが連れていく。義父の家にも交代で行き様子をうかがう。すると様々なことが解ってきた。
義父は町内のゴミの日が解らず、しょっちゅう間違った曜日にゴミを出しご近所に迷惑をかけていた。
買い物に行くと好物の巻きずしや焼きそばを大量に買い置き、賞味期限が切れても食べていた。豆乳や煮干しは食べきれないほど買いため部屋を埋めていた。
日にち・曜日、時間の感覚が解らないので賞味期限がわからないのも無理はない。

一度買ったものを忘れまた買ってしまう。かむら堂:利用者の家族の手記
認知症の典型的な症状だ。
そして一番困ったこと・・・・火の始末。
ガスコンロにヤカンをかけて忘れる。
さらに、これは義父の潔癖な牲格が災いしているのだが、ティッシュや食品卜レーなどのゴミがあるのが我慢できない。ゴミ箱にあるのも気になる。目の前から無くしたい。
そこで・・・庭の土管で焼くのだ。雨の降る日は外に出たくないから台所のコンロで焼く!
私たちは慌てた。このままでは火事を起こしてしまう!夜もおちおち眠れない。
同居も考えたが、私たちには仕事があるので引っ越せない。義父にこちらへ来てもらうしかないが、そうすると環境が変わり認知症が悪化する。認知症の人は環境の変化にとても弱いのだ。
それでも強行突破して引きとり、介護のため私が仕事を辞めたとしても、24時間365日見守り続けることは不可能だ。

考えあぐねたあげく、義妹が「役場の地域包括支援センターに行けば相談に乗ってくれるらしい」と言う。
そこですぐ義妹と私は役場に足を運んだ。わらをもすがる気持ちである。
地域包括支援センタ一から紹介を受け向かった先は
【小規模多機能ホームぼちぼち】
私たちと“ぼちぼちさん”との初めての出会いである。

ブザーを押すと桐岡さんが、管理者・介護福祉士の名刺を差し出してくれた。
事情を伝えると、まさかの即決!すぐに様子を見に来てくださるとのこと。
まるで天使?いや神様?何だかわからないが桐岡さんの後ろに後光が射して見えた。真っ暗な闇に一筋の光が見えたのだ。この時の感動、安心は今でも忘れることができない。

そして義父と桐岡さんの初めての出会い。

義父の心の声(疑心暗鬼、自分は一人で何でもできるのに、なぜ嫁たちは世話を焼きたがるのか?自分は一人が気楽でいいのに。まあいい、自分が騙されなければいいのだ)
そんな義父に桐岡さんをどうやって紹介するか?無い知恵を絞り「おとうさん、おとうさん、毎日ご飯大変でしょう。作るのも大変だし、何といっても栄養のバランスをとるのが大変。健康のため一日30品目食べなきゃいけないの。作れないでしょ?でもね。最近お弁当を運んでくれる施設があるのよ。ほら、すごいでしょ?こんなに沢山の食材が入ってる。これを毎日持ってきてくれるのよ。便利でしょ?この人が持ってきてくれるの。」あろうことか、桐岡さんを御弁当屋さんにしてしまった。
それでも義父は手強い。「弁当?いくら?高いな。一か月○○円じゃないか!」日にちは解らないのに計算は速い。私はあせりながら、それでも何とか説得した。

しかし一難去ってまた一難。
もともと他人に対してガードの高い義父は、昼間でも玄関に鍵を掛ける。“ぼちぼち”の方々がお弁当を運んでくれても鍵がかかっていたら入れない。声をかけても耳の遠い義父には聞こえない。そうだ!ぼちぼちさんに鍵を預けよう。そうすれば万が一義父が体調を崩していても見つけてもらえる!
ところが、玄関の鍵は2か所あり、1か所は鍵では開かないことが判明。中にいる居住人がロックを外すタイプだった。
そのことを桐岡さんに告げると、道具を持ってきてロックを壊してくれた。しかも壊れたことが義父には解らないようにしてくれたのだ。この素早い対応に感心し、もう大丈夫、これで私たちは何とかやっていける、と確信した。“ぼちぼちさん”が義父のところに毎日、昼と夜にお弁当を運んでくれる。その時に義父の様子も見てくれる。やれやれと安心したのもつかの間、義妹夫婦の東京転勤が決まってしまった。

私一人で義父の家に通う日々。週に2回~3回。片道50分掛けて通う。フルで働いていた仕事を半分に減らし、休みのほとんどを当てた。朝ごはんやフルーツなどお弁当では足りないものを届ける。そして掃除をしながらゴミのチェックをする。部屋の中はもちろん、庭の土管など危険な行動はしていないか探して回る。義父には気づかれないように。会話から認知症の進み具合を探り、まるで探偵のようだ。
義妹は東京から毎日電話をしてくれる。そのことに義父は喜び幸せそうだ。
なんとかこのぺ一スでやっていけるか?

人生いろいろ、重なる時は重なるもので、同じく9月に病魔に襲われた実父の2度目の手術も決まる。私の母は運転が出来ない。実家にも通い実父の病院通いもしながらの日々。
私の毎日は職場→義父の家→実家→職場→義父の家・・・この繰り返しである。
ストレスもピーク!でもその頃の私はストレスに鈍くそれがストレスだとは思っていなかった。なので、もっと苦しい状況にも立ち向かって行ったのだ。

思い起こせば、数年前に義父が事故を起こした時も変だった。前の車に追突し義父は足に大けが、被害者の方は軽いむちうち症。その時も義父はなぜ事故を起こしたのか全く思い出せなった。これも、いまから考えるとおかしいのだが、その頃は「事故のショックで一時的に記憶喪失になったのだろう」と思っていた。このとき既に認知症が始まっていたのだろう。もっと言えば、癌治療のため病院に連れて行っていた頃、一度ズボンを履かずにコートを着て、病院に着いてコートを脱いで、初めてズボンを履いていないことに気づくという事件があった。これもはじまりの一片だ。
離れて暮らす家族にはなかなか気づけない。ひたひたと進んでいたのに。

そして車・・・
義父は認知症と診断される直前に新車を買っていた。
そう、9月に救急車で運ばれることになってしまうそのきっかけは運転免許の書き換えだ。病院で若い脳と言われ、安心しきり運転免許を新しくし、ついでに新車も買った。その直後に大きな病院で認知症と判定されるわけなので、もう少し!もう少し、その判定が早ければこんなに困らなかったのに。悔やまれるが仕方が無い。これが運命だ。
義父は新車をご機嫌に乗り回す毎日だが、私たちは気が気ではない。いつ事故を起こすか?火事に次いで心配事が増えてしまった。

「乗らないで」こんな言葉が意味をなさないのは百も承知だ。義父に悪気はなく自分はしっかりしていると思い込んでいるのだから。ありとあらゆる方策を練った。車にGPSをつけようか?警備会社から断られる。車の鍵を隠そうか?駄目だ!車屋さんに頼んですぐ に作ってしまうだろう。
可愛い娘の言うことなら聞くかも?
東京から電話してもらうと・・・
言葉の理解が難しい義父である。
怒りを買い逆効果になってしまった。
もう残る手段は一つ。これに失敗したらもう何もない。崖っぷち!

桐岡さんと相談しある日臨んだ方法。
私の車は当時、購入して7年目で故障もなく順調だったが、すでに年数の理解は出来なくなっていた義父に「おとうさん、私の車古いでしょう。もう10年だもんね、古いから最近八ンドルの調子が悪いの。エアコンも効かない。ここも来るの大変なの。」
これに対して義父は「それならわしの車へ乗れ!」
やった!義父の気が変わらないうちに即、車を引き取り車屋さんにも連絡をした。話を合わせてもらうためだ。ところがさあ大変!我が家はカーポートが狭くて余分に車は置けない。かといって私が自分の車を処分するのはつらい。そこで、義妹宅の土地に義父の車を置かせてもらうことに。
その後私はつじつまを合わせるために、自宅を出た後、義妹の家に寄り、一旦義父の車に乗り換えて義父の家に行くのだ。なぜなら私の車は古くて調子が悪いから処分し、義父の車をもらったことになっているのだから。
これにより、通う時間はもっと長くなってしまったが背に腹は代えられない。これでやっと事故の恐怖から解放された。

“ぼちぼち”の皆さんのおかげで、“ぼちぼち”へ通うようになってくれた義父。
最初はお弁当箱を返すだけ。またはお部屋に入っても滞在時間が5分。そのうち週一回5時間滞在へと増えて行ったある日、事件は起こった!
車がない義父にとって唯一の移動手段、自転車を愛用し近所を乗り回していた。以前は車で25分のところにある散髪屋で散髪をし、その後隣のスーパ一で買い物をするのが習慣だったが今は車は無い。
そこで散髪がしたくなった父は“ぼちぼちさん”へ電話し散髪に連れていってほしいと頼んだのだ。
しかし、“ぼちぼちさん”も忙しい。「少し待ってね」と言われた義父の行動は・・・・かむら堂:利用者の家族の手記
しばらくして桐岡さんが義父の家に行くと、義父と自転車の存在が無かった。そう!車で25分の散髮屋まで、なんと自転車で行ったのだ!真夏の真昼間に!この時の義父は体力もありそのパワーはすごかった。桐岡さんが行ってみると散髮を済ませ、ご機嫌さんで巻きずしを買っていたそうだ。当然帰りは“ぼちぼちさん”に車で連れて帰ってもらうことになるのだが、この時のことは後々の義父の自慢である!「自分は何でも出来るのだ! !」

そうこうしているろちに義妹夫婦の転勤期間が終わり二人は帰ってきてくれた。夏が終わろうとしている。これからは義妹と二人で交代で通える。ありがたい。
車を乗り換えるために義妹の家に寄った時も報告が出来るし、なんといってもおしゃべりでストレス解消にもなる。

義妹が行ったある日、義妹から私にメールがあった。
「電子レンジに洗った後のパンツが入っている!」
もう、このころになると楽しみである。今度は何が起きるかな?
不謹慎だが私はそう考えて楽しみながら通っていた。義妹は落ち込むこともあるようだが、そこは親子だからゆえで仕方が無い。でも、この生活を10年続けるかもと覚悟していた私は、苦しみを笑いに変えて乗り切っていこうと決めていたのだ。私たちが心身ともに病気になったら、それこそおとうさんのためにならない。そう思うことにして。

そして冬。突然、義父は入院した。昼間お弁当を届けてもらった時は元気だったのに、その後高熱を出したらしい。助けを呼ぼうと、自転車を押して“ぼちぼちさん”まで歩いて行った。義父の心は、もう切ってもきれないほど、“ぼちぼち”の皆さんを頼りにしていたのだ。

入院した義父は混乱した。いつもの場所じゃない。自分の家でもないし、“ぼちぼち”でもない。興奮し私たちがいない夜、点滴を引き抜き病室を血まみれにした。同室の患者さんは怖がり、義父は個室に入れられた。その上、昼夜家族が付くようにと。その後1週間ほどで退院できたが、私たちの疲労もかなりのもので、久しぶりに認知症の難しさを思い知らされたのだ。

でも良いこともあった。ガスは既に撤去していたが、相変わらず時々庭の土管で物を燃やしていたので、入院を機にマッチやライタ一、バーナーなど火の出るものを家中から撤去したのだ。本人が思い出して買ってきたら仕方が無いが、病院から帰ってきた義父はライターやバーナ一のことを忘れていた。このときやっと、本当の意味で火事の心配から解放されたと思った。その後「燃やしたくなるものを置かない」ことに徹し、義父の食べるものは全て包装紙や食品トレ一を外し持って帰る。食べものは瓶やタッパーにいれる。など工夫をした。義妹がきめ細かいフォローをしてくれ助かった。

もう義父が入院することの無いよう、風邪をひかないように細心の注意を払っていたが、認知症の方は確実に進んでいた。服を一人で着られないのだ。そのせいかお風呂に入るのを極度に嫌う。少し前は「気持ちいいシャンプ一を買ってきたよ」とか「お風呂に入ったらめちゃくちゃ楽しいよ」などと盛り上げれば入っていたが、もう、どう説得しても入らない。かむら堂:利用者の家族の手記着替えが苦手で、パンツを2枚履いたり、ズボンの上にズボン下を履いたり順番が解らなくなっていた。大きなジャンパ一の上に小さいベス卜を着た姿には感動!よく着れたなあ。
でも“ぼちぼちさん”で過ごすことが多くなっていたので時々は入れてもらいさっばりすることができていた。散髪も“ぼちぼち”内でしてもらうことになり、いろんな意味で安心だ。

“ぼちぼちさん”と出会って1年が過ぎようとしていた。
この頃、夜出歩くようになった。目的は義妹の家だ。しかし、どう考えても歩いて行ける距離ではない。一度は道が解らなくなって立ち往生しているところを、警察官に尋問されパニックになる。警察官数人に取り囲まれ、名前も住所も言えず困っているところ・・・ここが義父の運の強さなのであるが、な、なんと帰宅途中の桐岡さんが見つけてくれる。なんという幸運。

これを教訓として名札を洋服に縫いつけた。見つけた方がぼちぼちへ連絡してくれるよう電話番号も書いた。
その後は明け方5時、自宅から数キロ離れたところの溝にはまり動けなくなった義父。その土地の方が見つけてくださり、その一報を受けた“ぼちぼち”の社長が迎えに行ってくださった。(ご迷惑をかけました)さっそく名札が役に立ったわけだが、あまり喜べない。いわゆる徘徊のきざしである。

さあ、またGPSの検討だ。今度は車の位置ではなく、義父本人の位置を管理しなければならない。しかし初期に試したシステムでは誤差が大きすぎた。「まずい」と思い義妹夫婦が夜間に駆けつけると義父はすやすや眠っているということもあった。
数社試してやっと精密な機能を持つシステムを見つけた。ここでも桐岡さんに大変お世話になった。
GPS機能付き携帯を買い準備万端。しかし、これをどうやって義父に持ってもらう?
皆で相談した結果、義父がこの頃一番大事にしていたもの(兎のマスコットの付いた家の鍵)に取り付けることにした。財布は忘れても、何を忘れてもこれだけは忘れなかったからだ。義妹が作った袋に携帯を入れ、それに鍵の付いた兎を縫いつけると義父は全く疑わない。大きさや重さの違いが解らなくなっていたから。
これにより私たちはパソコンで義父の位置を確認できるようになった。たまに誤差があり、隣の家で寝ている義父を確認(もちろん自宅にいるのだがGPSが示す位置が少しずれているのだ。)その後も「今日は役場で寝ているね」なんて言いながら毎朝晩義父の位置を確認するのが私たちの日課になった。大きく離れたところにいれば徘徊だ。すぐに駆けつけなければならない。
かむら堂:利用者の家族の手記
しかし、結果を言うとその後駆けつけることはなく、さらにGPSさえも必要が無くなる。
それまで、なんとか一度泊ってもらおうと誘い続けていたが叶わず、変わらず昼間だけ通う日が続いていたのに、体調を崩したある日、一人でいることに不安を感じたのか素直に誘いに応じたのだ。その後続けて泊まる日々が続き、GPSは不要になった。

それからは昼間私たちが“ぼちぼち”へ迎えに行き、義父の自宅に連れて帰るという、これまでとは逆の生活になる。私たちの心に平安が訪れた。毎日安心して眠れる。
これならずっと、ずっと続けていける。続けるつもりだったのに。

“ぼちぼちさん”にお世話になって2年を過ぎたころ・・・
深刻な病状になり入院を余儀なくされた。
また昼夜私たちが交代で付くのだ。しかし今回は以前とは比べ物にならないくらいの厳しさだった。義父は昼夜一睡もしないで暴れ続けるのだ。睡眠薬も全く効かない。種類を変えても効かない。足が立たないのに、立ちあがってトイレに行きたがる。心不全でむくみ、体重が増えた体を支えてトイレに行かすのは一人の力では無理だ。看護師を呼ぶが毎回来てはくれない。それなのに、尿意があるなしにかかわらず、10分おきくらいにトイレに行きたがる。そして“ぼちぼち”へ連れて帰れと泣き叫ぶ。それが一晩中続く。精も根も付き果てふらふらの日々が続き、私はとうとう熱を出し倒れてしまった。義妹にも負担が増えるので、もうこれ以上入院は出来ない。
担当の先生にも相談し「ぼちぼち」へ連れて帰る運びとなった。

この時私たちは話し合って、最後まで“ぼちぼちさん”にお世話になろうと決めたのだ。それくらい切迫した病状になっていた。

かむら堂:利用者の家族の手記
退院後、“ぼちぼち”へ着いて義父は落ち着き久しぶりに少し寝た。ほっとしたのもつかの間・・・
また戦いが始まる。
病院にいる時と同じように暴れるのだ。
なぜ?泣きたい気持ちになったが、今度は病院ではない。私たち家族だけになることはない。昼も夜も常にプロの方々がついていてくださる。義父が少しでも心地よく過ごせるように、きめ細かい介護が続く。なんて心強いんだろう。皆さんの温かい心遣いと的確な手当てには頭の下がる思いでした。
その上、病院からは先生が往診に来て薬の調整もしてくださるのでますます安心だ。

義妹と交代で義父の部屋に行く日々が続く。夫たちも足を運ぶ。
ある日部屋に入って驚いた!
義父がよく行きたがった場所があるのだが、その場所に咲き誇る桜の写真が部屋の天井いっぱいに貼ってあった。寝ている義父が仰向けのままお花見が出来るように。
ある日は優しい音楽が聞こえてきた。癒しの音楽CDがセットしてあった。

その後、だんだんと弱っていきべッドから降りられなくなっても足だけは動かす義父。「一人でトイレに行きたい人に迷惑をかけたくない」そんな気持ちだったのだろう。
元気な頃よく「墓参りに連れて行って」と駄々をこね、“ぼちぼち”の社長や桐岡さんに連れて行ってもらった。そんなことも思い出して、もう一度自分で歩いて行きたかったのだろう。食事もとれなくなり、ほとんど動けないのに足の先はまだ動いていた。最後まで歩きたかったんだね。

退院して大好きな“ぼちぼち”へ帰って一力月、満足そうな笑みを浮かべて義父は旅立って行きました。

“ぼちぼち”の皆さんに見守られて、毎日いろんな方々に声をかけてもらって「ありがとう」と言っているようでした。私たちも最高の送り方が出来た、と思っています。
外の桜が満開でした。


かむら堂:利用者の家族の手記